慶應義塾大学の同窓会【2024年連合三田会大会】に参加し、スピーチに感動し【挨拶】について考えました
私が卒業した慶應義塾大学には【三田会】という同窓会があります。在学生は【塾生】、卒業生は【塾員】と呼ばれます。
私は、三鷹市に在住していますので【三鷹三田会】に属しています。
それとともに、卒業した年を同じくする【115三田会】のメンバーでもあります。
また、市長在任中は【市長三田会】に属していました。
慶應義塾大学の塾員に向けたユニークな取組みとして、大学卒業後25年の塾員を卒業式及び交流会に招待してくれます。
そして、大学卒業後50年には入学式と交流会に招待してくれるのです。
さらに、秋には、神奈川県日吉キャンバスで開催される【連合三田会】という、各地域、各分野別の三田会が合同して集う大きな集会の記念式典と交流会に招待されます。
このきめ細かい卒業生への働きかけのおかげさまで、卒業50年を迎えた私は、今年春の入学式・交流会に加えて、秋の連合三田会記念式典・交流会で、塾長や教職員、多くの学友と再会できました。
この日、連合三田会記念式典の開会前に、会場の日吉記念館前で、私が1、2年生の時に所属していた【広告学研究会】のメンバーと待ち合わせをして、記念写真を撮りました。
その後、法学部政治学科1年L組のクラスメートと男女7名と一緒に記念式典の会場の席に並んで座りました。
記念式典では、実行委員長の笠原慶久さん(1984年経済学部卒・肥後銀行頭取・九州フィナンシャルグループ社長)が、【開会宣言】をされました。
「今年のテーマは、年に1度のホームカミングデーという原点に戻り、【おかえり】、副題を【KEIO HOMECMNING DAY】とされた」とお話の口火を切られました。
何よりも多様な価値観を尊重して、新しい出会いと友情が生まれるように努められたとのことです。
日本酒などお酒の文化も揃えましたが、【気品の泉源】である塾員として品位を持って楽しんでください!と。
その後、大変に大きな塾旗が入場し、参加者全員で、声高らかに校歌である【塾歌】を斉唱しました。
次に【連合三田会】会長の麻生泰さん(1969年法学部卒・麻生セメント会長)がご挨拶されました。
「三田会という同窓会は学びの場です。各三田会がそれぞれの個性豊かな取組みで、大学を卒業しても、豊かな学びの機会を提供しています。その1年の集大成が連合三田会です。」
「大谷選手は野球界の【MVP】ですが、私たち連合三田会のメンバーは、ミッションを受け止め、ビジョンを掲げて、パッションを持ってそれを実現していくという意味での【MVP】になりましょう」と鼓舞されました。
名誉会長の塾長は、「『おかえり』と言ってくれる場、『ただいま』と言える場があることは幸いです。自分は思いがけない病気で仕事を休まなければならなかったことがあり、そのことを痛感します。」と語りました。
この3人の方は、ノンペーパーで、会場の参加者を見渡し、心を込めて挨拶されました。
だからこそ、広い会場の片隅にいても、私にはその想いがしっかりと届きました。
福沢諭吉先生が【演説館】をつくり、演説を大切にされた塾風を、痛感しました。
私も、市長時代、ほとんどノンペーパーで、その場にいる皆さまをしっかりと見つめながら挨拶することに努めたことは、無意識の中に【塾風】の影響があったのではないかと再認識しました。
記念式典の直後は親友と席を前に移動して、【能登を応援するフォーラム】を聴きました。
進行の西川潤さん、富山県の新聞社の山岡一成さんが、七尾市で自動車学校を経営されていて被災した塾員の森山明能さんから能登の被災の実情や課題を聴き取り、わかりやすく解説してくれました。
山岡さんは、日々の活動報告を踏まえて、【ずっと復興】【日本はいま分水嶺に】【能登から日本を考える】というキーワードを提起されましたが、まさにその通りと共感しました。
とはいえ、その日、私のできたことは、能登半島に想いを馳せながら、石川県のブースで募金箱に少額を寄付することだけでしたが。
お昼前からの交流会で司会を務めてくださったのは、1994年文学部卒の元NHKアナウンサーの久保純子さんと、現在NHKアナウンサーの上原さんでした。
久保純子さんは三鷹市出身で、市立第五小学校、第三中学校へ通い、大学時代には第二中学校で教育実習を経験するなどした三鷹市との深いご縁から、私が三鷹市長に就任した翌年の『広報みたか』2004年新年号に、私との対談を掲載させていただいたことがあり、約20年ぶりの再会でした。
そこで、久保さんと同期の幹事をつとめていただいた小野寺さんと一緒に写真を撮りました。
こうして、懐かしい大学・大学院の学友をはじめ、多くの皆様と和やかに充実した対話のひと時を過ごしました。