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三重県津市を訪ねて~国宝専修寺の広さ、気高さ、奥行きの深さ

三重県津市を訪ねて~国宝専修寺の広さ、気高さ、奥行きの深さ

私は、7月22日から23日にかけて、三重県津市の前葉泰幸市長のお招きをいただいて、津市役所の部長・次長を対象にした【組織経営セミナー】の講師として津市を訪問しました。

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津市役所の前で前葉市長と

22日午後1時半から4時までの研修講師の役割を終えてから、前葉市長のご紹介で、平成29(2017)年に国宝に指定された津市の一身田寺内町(いっしんでんじないちょう)にある【真宗高田派本山専修寺(しんしゅうたかだはほんざんせんじゅじ)】を視察させていただきました。

霧雨の降る夕方の遅い時間の訪問となりましたが、宗務総長の増田修誠(ますだしゅうじょう)様と庶務総務の藤谷知良(ふじたにちりょう)様が出迎えてくださり、お寺の歴史や概要について説明をいただきました。

津市は北海道の上富良野町と姉妹都市提携をされているのですが、それは、上富良野町開拓の第一歩は、明治29年富良野原野が殖民地区画として選定された後、明治30年に三重県安濃郡安東村(現在の津市納所町)出身の田中常次郎氏をはじめとする三重団体一行が草分地区へ移住したことに始まるとのことです。
また、大正15年の十勝岳噴火災害から復興を成し遂げた当時の村長が、三重県一身田村(現在の津市一身田町)出身の吉田貞次郎氏でした。
そして、上富良野町開基100年を迎えた平成9(1997)年7月30日には、相互の交流と永続的友好関係を促進することに合意し、友好都市提携が結ばれました。
この度お目にかかった宗務総長の増田修誠さんは、なんと上富良野町にある高田派寺院である専誠寺のご住職とのことで、まさに、津市とのご縁が深い方が、現在は本山の宗務総長をつとめられていることになります。

私は、大学教員であった頃、現在は早稲田大学名誉教授の北川正恭様が三重県知事をされていた際に、県の地域情報化や障がい者福祉施策について検討する組織のメンバーを務めていたことから、何度か津市を訪問したことがあります。
けれども、高田派の本山があることは不案内で承知していませんでしたので、今回が初めての訪問となりました。

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専修寺のパンフレット

第25世法主の常磐井慈祥様は、寺院のパンフレットの前書きに『知られざる大本山専修寺』と題されてお言葉を書かれています。
すなわち、専修寺はもともとは真宗の開祖の親鸞聖人が嘉禄2(1226)年に現在の栃木県真岡市高田に【高田山専修寺】として建立されたのがはじまりということでした。
しかしながら、その後戦火に見舞われるなどしたため、高田派の中興の祖と言われる真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として明応元(1492)年に無量寿院を建立したのが現在の津市での専修寺の始まりとのことです。
その後火災などを経て、江戸時代の万治元(1658)年、津の藩主藤堂高次公より寄進された境内に、長い年月をかけて壮大な伽藍が整備されて現在に至っているという内容でした。

ご説明を伺ったのち、幸いにも、私はこの寺院の管理をされている庶務総務の藤谷様にご案内をいただいて寺院の内部を1時間余り、たっぷりと視察させていただきました。 

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御影堂内にて専修寺の藤谷知良庶務総務と

国宝御影堂は、国宝・重要文化財の木造建築物の中で5番目の大きさで、その外見から圧倒的な存在感を見せています。
しかも、内部を拝見すると、その広さと重厚さは言葉には容易には表すことができません。
国宝御影堂は畳で780枚分の広さであり、親鸞聖人の木像を中央の須弥壇(しゃみだん)に安置し、歴代上人の御影を敬置しているお堂です。
正面には金色の『見真』の額が飾られており、これは明治9(1876)年に親鸞聖人におくられた大師号で、明治天皇が下賜された宸筆(しんぴつ)を原本に制作されたとのことです。

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親鸞聖人に送られた大師号「見真」の額

堂内で、私は、藤谷様から貴重なお話を伺いました。
親鸞聖人の言葉で『善人なおもて往生遂ぐ、いわんや悪人をや』という言葉の意義についてです。

この言葉は【他力本願】を示す有名なことばですが、それでは【善人】とはどんな生き方をする人のことを言うのでしょうか。
また、【悪人】とはどんな人のことをいうのでしょうか。
たしかに、どう考えればよいか迷います。

藤谷様は、真宗高田派では、善人と悪人を分けるのは、いわゆる【欲の有無】であるとおっしゃいました。
現代社会の一般的な【善人】【悪人】の区別と言えば、善行をする人が善人で、罪を犯すような人が悪人とされます。
そこで、罪を犯した悪人が、善人でなくても救われるのであれば、罪を犯した方が得ではないかというような解釈をする人が少なからずいるようです。
けれども、真意はそうではないと、藤谷様は説明されます。

「人間はなかなか我欲から抜けさせない存在でありますが、それを知って自重することはできます。それでもなかなか我欲を持つ存在から抜け出せなくても、その己を知り、努める時、救うのは阿弥陀如来であり、ご先祖様ということになります。現世に生きる者は、ご先祖様が極楽浄土に迎えるように法事をするのではなく、ご先祖様こそ今を生きる私たちが我欲を捨てて善に生きられるように支えてくださっているのが法事ということになります。」

このお話を聞いて、6月末に実母を見送ったばかりの私には、亡くなった実母に今でも支えられている自身を素直に受け止めることができたように思います。

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御影堂と如来堂を結ぶ重要文化財通天橋

御影堂を出て、長い廊下を経て、通天橋を渡ると荘厳な阿弥陀如来立像を本尊として安置するもう一つの国宝如来堂に到着します。
如来堂は御影堂の半分の建物ということですが、天井が高く、外部も内部も緻密な木組みがみられ、左甚五郎作の鶴の妻飾りや軒には象・獏・龍の彫刻が守っています。
黄金の宮殿を思わせる開放感のある華麗な堂内は、極楽浄土を想像させますが、同時に、来る者に冷静な気持ちをもたらす気品があります。

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阿弥陀如来像が安置されている黄金の如来堂の内部

こうして、国宝の御影堂と如来堂の内部の荘厳さに圧倒された気持ちでいる私に、藤谷さんが、「もし、もう少しお時間があるならば、非公開の賜春館をご案内できますが、どうされますか?」と聞いてくださいました。
同行していただいた津市役所の総務部長と人事担当副参事のお二人も、今まで拝見したことがないとのことでしたので、ぜひ拝見したいとお答えしました。

賜春館は、明治13年に明治天皇が訪問され、宿泊されたお部屋ということで、貴賓接待用に建てられた60畳の大広間です。四面を庭園に囲まれた部屋に着くと、奥の床の間の書に目が行きました。
『崇徳興仁務修礼譲』と書かれた文字の横には、『明治二二年春日、陸軍大将熾仁親王篆』とあります。
この明治22年は、津市が4月1日に、全国30市と共に初めて市制施行した年です。
その年に書かれた書に巡り合えたこともご縁と受け止めました。

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賜春館の書の前で

真宗高田派本山専修寺は、2年前に国宝となり、その建物が建築物として掛け替えのない国の宝とされたことになりますが、一般に広く開放された境内では、参詣の方がゆっくりくつろぐような、門前町とはまた違う性格を持つと言われる【寺内町】の安らぎと温かさがあります。
東西約500メートル、南北約450メートルの寺内町の範囲を明確に示す環濠が唯一完全な形で残っているところも注目されます。
【一身田寺内町ほっとガイド会】のボランティアの皆様が歴史や文化財を案内してくださるとのことで、次回は、時間をかけてゆっくりと寺内町も散策したいと思いました。

短い訪問で大いに感動した私は、今後、多くの皆様に【真宗高田派本山専修寺】を訪れていただき、国宝を身近に感じていただくことを願わずにはいられません。
皆様のご注目と、津市および、【真宗高田派本山専修寺】へのご来訪をお勧めいたします。

※本記事内で使用させていただいた画像は、撮影・掲載許可を頂いているものです。

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