あの山本有三にもあった修業時代~「三鷹市山本有三記念館企画展:翻訳ものの世界」から考える~
山本有三記念館と私
作家であり戯曲家であり参議院議員をつとめた山本有三(明治20:1887-昭和49:1974)は、1936(昭和11)年から1946(昭和21)年まで、母、妻と4人の子どもと三鷹市の下連雀の洋館で暮らし、代表作の小説『路傍の石』戯曲『米百俵』などの執筆をしました。
私は、小学生時代の1960年代には『路傍の石』の映画を学校の映画会で観て、それを契機に小説を読み、主人公の吾一の生活を追体験し、共感しながら育ちました。
大学院生であった1970年代には、三鷹市で家庭文庫・地域文庫活動をしている母親たちと学習活動の関係に注目して調査研究をする際に、1956年に有三が東京都に寄贈し、当時は東京都立教育研究所三鷹分室「有三青少年文庫」であった現在の山本有三記念館を訪問し、文庫活動のボランティアをされている女性たちにインタビューをさせていただきました。
その後1985年に建物が三鷹市に移管された後もこの文庫活動は続き、多くの子どもたちが本とふれ合う機会を提供しました。
2003年4月に第6代三鷹市長に就任してからの私は、指定管理者である公益財団法人三鷹市スポーツと文化財団(前公益財団法人三鷹市芸術文化振興財団)が毎年、半年ごとに2回ずつ新たに企画し開催する企画展を訪問してきました。
さて、作家・山本有三が1936年から1946年まで住まい、多くの作品を生み出した同記念館は、1994(平成6)年には三鷹市の重要指定有形文化財に指定されているように、レンガ造りの美しい外観、煙突や暖炉、ステンドグラスをあしらった階段などが特徴的な、いわゆる「大正ロマン」を今に伝える本格的な洋風建築です。
しかしながら、同記念館は大正末期の建造物であり、築後90年を超え、外壁が剥がれ落ちるなどの老朽化が進んでいました。
私はこの建物の維持管理と運営に責任を果たすべき当時の三鷹市長として、市議会に提案し、ご承認いただいて実施することにしたのが、2017年6月から2018年3月までの改修工事でした。
この工事は、鉄筋コンクリート耐震補強壁による構造補強や煙突・雨どいの補修、外壁の塗り替えなどの大規模な保存・改修工事でした。
この工事については、いわゆるクラウドファンディングを初めて実施し、市内外の多くの皆様から500万円を超えるご寄付が寄せられました。
そして、2018年3月31日のリニューアルオープンの際に、山本有三のご遺族様をはじめ、改修工事にご寄付をいただいた皆様にもご出席いただいて、テープカットをしたことは、この洋館に新たな息吹が吹き込まれたことであり、大変に感慨深いものでした。
山本有三にもあった挫折
2019年9月7日㈯に2020年3月8日(日)までの予定で開始された最新の企画展「山本有三~翻訳ものの世界~」は、単に山本有三の翻訳の業績を紹介するものではありません。
山本有三が、第一高等学校(現在の東京大学教養学部)に進学してから開始した創作活動は、新劇運動の時代に活かされる翻訳劇に関わりつつ、劇作家としての人生を歩もうとしたものでしたが、その際に直面した「挫折」を経て、外国作家の作品を「翻訳」するという修業の時期があったことを紹介しているのです。
明治時代には、森鴎外、坪内逍遥といった名作を多く生み出した作家たちが、翻訳を多く手掛けていました。
維新の時代に、外国の文化を取り入れ、外国の文学に出会った文学を志す人々は、翻訳を通して小説や戯曲の主題、構成、文体などを学んだことが容易に想像できます。
東京帝国大学での大正4年の卒業論文では、ハウプトマンの『織匠』を取り上げた山本有三は、卒業後、新派三角同盟一座の座付き役者となったということです。
ところが、役者との関係がうまくいかなかったようで、翌年には職を辞しています。
記念館に展示されている、本人がまとめた年譜に、
「二月以降は九州地方を巡業したが、二月中旬、職をなげうって、東京に帰る。しみじみ自身の無力を感じ、精進の気にはかに高まる」
とあります。
同記念館の文芸企画員・学芸員の三浦穂高さんによれば、山本有三にとっての「精進」の中身は、読書と翻訳だったとのことで、特に大正5年に上梓したスウェーデンの作家ストリンドベリの『死の舞踏』の翻訳は、有三が作家としての飛躍を期して臨んだ翻訳だったとのことです。
『死の舞踏』には、精緻な心理描写や作劇術が示されており、山本有三は「死の舞踏について」という文章において、「忍従の人信仰の人クルトと意欲の人エドガルとの対立」には、ストリンドベリの「反抗的精神と忍従的精神」の交錯があると高く評価しているとのことです。
この「精進」の時期を経て、山本有三が大正9年に発表した戯曲『生命の冠』『嬰児殺し』によって、社会の人間の苦悩を描く戯曲の名手として評価を受けるようになりました。
山本有三の経験とは「月とすっぽん」ではありますが、私は、大学院で学んでいた時、指導していただいている教授の皆様が英文の専門書の翻訳をされる際に、数冊の担当頁について、いわゆる第1次の翻訳である「下訳」を担当したことがあります。
専門書の翻訳は、文学よりも表現を凝る必要もなく、機能的に行えるもののはずですが、実は、毎回その原稿が真っ赤に修正されて戻ってきて、私なりに修業とはこういうことだと、下訳のお役に立っていない不甲斐なさを痛感したものです。
翻訳だけでなく、指導教授のゼミナールで同期生と日本語の文献講読をする際には、まずは文献の重要と思われるを箇所を書き写して、その論理構成や重要概念の意義を確認しました。
文学でいえば、外国の文献を翻訳することや、先人のすぐれた作品を書き写して文体などを体にしみこませることに類似していることをしたのかもしれません。
翻訳と言えば、根拠のほとんどない伝説的な逸話として、あの夏目漱石が英語教師の時、学生が「I love You」を「我汝を愛す」と訳したところ、「そのような言葉は日本にはなじまない。月がきれいですね、とでも訳した方がいい」と言ったという話があります。
同様に、二葉亭四迷は、「I love You」を「死んでもいい」と訳したとの話もあります。
山本有三の場合は、ドイツの詩人フライシュレンの詩を翻訳した際に、直訳すれば、「心に太陽を持て/そうすれば、なにごともよくなる」となるところを、「心に太陽を持て/そうすりゃ何だってふっ飛んでしまふ」と訳しており、企画展ではそれに関連する展示もあります。
『三鷹市山本有三記念館館報』第19号(2019年9月)には、山形大学名誉教授の早川正信先生が「山本有三の外国文学の受容‐その「年譜」をたどりつつ‐」という文章が寄稿されています。
早川先生によれば、山本有三は東京大学の前身である第一高等学校文科に入学し、芥川龍之介、菊池寛、久米正雄らと同期となったそうです。そして、立ち上げた第三次『新思潮』の編輯後記には、「芥川のシング、菊池のグレゴリー、山本のストリンドべリィ」などの記述があるとのことです。
そして、座付き作家を辞してから約3年間の雌伏期があるが、その時期のはじめにストリンドベリの『死の舞踏』を翻訳した際に、主人公の一人の生き方から「あきらめ」は希望の欠けた絶望ではなく、希望を前途に見る向日的なものとして捉えるようになったのではないかと考察されています。
さらに、早川先生は、山本有三がオーストリアのシュニッツラーの『盲目のジェロニモとその兄』という作品を翻訳したことが与えた影響についても言及されています。
すなわち、この翻訳を通して、兄と弟、不可視と可視、光と闇、永遠と瞬間、柔または剛といった二律背反的現象に関心をもったとのことです。
日本では、善と悪、静と動といった二律背反的な思考をするよりも、定義や境界を画然としない「曖昧」をよしとする文化があるようです。
したがって、ヨーロッパ文学の翻訳を通して、山本有三の文学の地平が開かれたことが推測されます。
そして、山本有三の多くの作品が翻訳されていることをわかる展示もあります。その作品の多さを目の当たりにして、翻訳ものの世界においては、外国の作家たちが山本有三の作品を翻訳して、どのような影響を受けたのかを知りたいと思いました。
山本有三記念館が愛される理由
2018年3月31日にこの記念館がリニューアルオープンした際には、花壇の花が咲く中でウグイスがお祝いするかのように見事に「ホーホケキョ」と啼いてくれました。
夏には、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ヒグラシ、ツクツクボウシが鳴くことに加えて、四季を通じてトンボやチョウチョが飛び交い、小鳥たちが歌います。
秋には、庭園の木々が紅葉し、冬には常緑樹が生命力を示してくれます。
このように、大正時代の建物の魅力を引き出す庭園の動植物との出会いは記念館の魅力の一つです。
というのも、記念館の庭園は一般社団法人三鷹シルバー人材センターの植木班の皆様が樹木や花の管理をしていただいているからです。
そこで、2008年9月の敬老の日の行事として、上皇陛下・上皇后陛下が、天皇陛下・皇后陛下時代に同センターを行幸啓されました際に、同センターの会員の活動の現場の一つとして記念館を来訪され、会員を激励されました。
また、山本有三が戦時中に子どもたちに豊かな読書環境を提供したいと始めた「少国民文庫」を契機に、子ども文庫の取り組みを経て、現在も子どもと読書に関する事業が実施されています。
たとえば、9月14日(土)14時から、未就学児と小2までの児童を対象にした「おはなし会」が開かれます。
また、9月15日(日)に、BS朝日の『百年名家』という1時間番組で、俳優の八嶋智人さんのご案内で記念館が紹介されるとのことです。タイトルは「洋館が誘う おとぎの世界~文豪・山本有三が暮らした三鷹の家〜」です。
みたか都市観光協会みたかフィルムコミッションの情報によれば、演歌歌手の坂本冬美さんが2020年のカレンダーの撮影を、この夏に記念館でされたとのことです。
着物やドレスをまとった坂本さんが、記念館の玄関や階段を含む館内で、大正時代の洋館の魅力を生かした撮影を行われたようです。
そして、10月1日から12月8日までの間は「第6回三鷹市山本有三記念館スケッチコンテスト」の応募期間です。
これは、記念館で写生している方が多いことから職員が提案して実現したコンテストであり、スケッチの実践が先行していたものです。
文字通り老若男女の多世代の皆様が描いたそれぞれの記念館の絵が展示される時、私たちは記念館が愛される理由を、文学ではなくスケッチという美術を通して理解することができます。
山本有三が家族と共に住まい、多くの作品を、修業の時代を経て生み出していった三鷹の洋館は、文字通り、山本有三という一人の人間が生きたことを、時代を超えて記念する館なのだと思います。
文学を愛する人、建築に興味を持つ人、自然や四季の美しさに関心を持つ人、三鷹市に関心のある人、どうぞ、三鷹市山本有三記念館を訪ねてください。
きっと、お一人おひとりに、それぞれの発見があると思います。