阪神淡路大震災から25年を経て
25年前、4半世紀前の平成7年1995年1/17早朝に発生した阪神淡路大震災は、関連死を含む6千4百人を超す死者、多くの負傷者と約25万棟の住宅等全半壊の被害をもたらしました。
当時、三鷹市大沢にあるルーテル学院大学の教員であった私は、専門がメディア学・情報通信政策であったことから、兵庫県の地域情報化に協力した経緯から、復興計画検討会議の委員を依頼されました。
被災地では、大学教員や専門家も被災していたことから、被災地以外の大学教員等に委員が依頼されたのです。
初めて全員での会議が開催されたのが、2月11日のことでした。
ヘリコプターで被災地を上空から視察した時には、広がる真っ黒な焼け跡と、多くの青いビニールシートで覆われた家屋を目の当たりにして、多数の人的被害の過酷さに体が震えました。
また、神戸港及び周辺の液状化の深刻さに、日本で初めて震度7が記録された地震の苛烈さを実感しました。
その後、冷え切った庁舎での会議、帰京してからのメールでのやりとりにより、「不死鳥」という意味のフェニックス計画を3月末にとりまとめる作業に参加しました。
さらに、建築家の安藤忠雄さんの呼びかけで「阪神淡路震災復興支援10年委員会」が設立され、私は委員となるとともに、その使命として、会議に参加するだけでなく、被災地の兵庫県等からの依頼は、審議会委員であれ、職員研修講師であれ、三鷹市長に就任するまでは全てお引き受けしてきました。
その時に学んだことが、三鷹市長就任後の防災対策、東日本大震災への対応、三鷹中央防災公園の整備などに結びついているように思います。
阪神淡路大震災発生から25年が経過したいま、改めて亡くなられた皆様のご冥福をお祈り致しますとともに、心と体が傷つかれた皆様が癒されますことを願います。
その後の日本では自然災害が増えており、過去の災害から学んだことをしっかりと今後の防災に生かしていくべきと考えます。