こども家庭庁の創設をシングルマザーの経験から考える(その2)
私が大学院博士課程を「単位取得退学」して、いわゆる「オーバードクター」を4年経験してから、1983年4月に最初に正規の教員として勤めることができたのは、茨城県水戸市にその年に開学した四年制大学の常磐大学人間科学部でした。
当時は女性の大学教員は決して多くはない状況でしたので、正規の教員として採用されたことはありがたいことでした。
そして、2年後の3月に長女を出産しました。
出産後は、両親に育児を手伝ってもらう関係から三鷹市内の実家の近くに転居しました。
長女の出産直後に、当時のルーテル学院大学学長の間垣洋助先生から、社会学の教員が急に辞めることになったので新年度から非常勤講師をしてほしいとの依頼がありました。
それが、ルーテル学院大学とのご縁の始まりです。
当時、三鷹市から水戸市の大学までの通勤は特急電車を利用しても片道約3時間かかりました。
産前産後の休暇は取得しましたが、私が担当している科目の全てに代講の講師を探すことはできませんでしたので、5月の連休明けから授業に復帰しました。
そして、その年の9月からは共働きしていた配偶者が2年間の予定でアメリカに出向することが決まりましたので、思い切って実家に同居することにしました。
授乳は母乳とミルクの混合でしたので、授業の合間の時間に研究室で搾乳器で搾乳していましたが、それでも授業の時に胸に入れていた母乳パッドから母乳が溢れてブラウスに滲み出てきてしまうことがありました。
また、ある時、同僚が、「清原さん、頭の後ろが変ですよ」というので、合わせ鏡で確かめると、500円玉くらいの大きさの見事な円形脱毛症ができていました。
幸い、髪留めで隠すことができましたが、全く無意識に自分が無理をしていることを自覚しました。
今思い出すと、出勤日には往復6時間、よく通い続けることができたと思いますし、長時間不在の私に代わって授乳、おむつ替えなど子育て全般を担ってくれた両親の存在無くして、長女の健康な成長はなかったと思います。
その後、私自身もアメリカのアラバマ大学客員研究員に選ばれて、長期休暇ごとに3歳にも満たない長女を連れて2年間に6回渡米しました。
アメリカにいるときは、短期の滞在でも乳幼児保育園を利用することは比較的に容易で助かりましたし、大学に行く頻度も日本ほどではなかったので、かえって長女と一緒の時間を確保することができました。
そして1986年、ルーテル学院大学学長の清重尚弘先生から、1987年度に学部改組をするので社会科学担当の教員が必要であり、大学を移れないかという申し出がありました。
通勤が遠くて、配偶者もアメリカにいる状況では、親として長女の子育ての責任をしっかり果たせないことを痛感していたことから、在住の三鷹市の大学からの採用の申し出は大変にありがたいものでした。
とはいえ常磐大学は新設大学ですから当時の文部省大学設置審議会による教員審査を受けており、4年経過した完成年度以降の異動とはいえ、多少なりとも大学に迷惑をかけることになります。
さらに、ルーテル学院大学の学部改組についても文部省の審査がありますから早く決断しなければなりません。
そこで、熟慮の上、思い切って異動を決断しました。
すると、清重学長は、常磐大学に出向き、当時の理事長と学長に私の割愛を願い出てくださいました。
いずれの先生方も、清原が長女の子育てと大学教員を両立させる為に一番よい在り方を選択したのだから、心から応援すると言ってくださいました。今でも感謝の気持ちでいっぱいです。
私は研究者であり、教員でもありましたので、一般的な働き方とは少し違ったかもしれませんが、私が出産・育児をしていた30年以上前の当時、女性が自ら働き方を選ぶことは大変に困難な状況でした。
そんな中、よき理解者であった皆様方のおかげ様で、育児と仕事をどうにかこうにか両立することができました。
現代においては、働いている女性割合は30年前に比べて随分増え、育児のしやすさ、働きやすさも向上してきてはいると思いますが、まだまだ課題の多い状態です。
このような私の経験からも、職業によって、本人やこどもの年齢によって、働き方や家庭での日常生活のカタチは多様であると思います。
こども家庭庁の理念は「こどもまんなか」であり、その理念に基づいて、こども中心の子育てへの多様な支援、伴走の在り方を具体化する必要があると思います。