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こども家庭庁の創設をシングルマザーの経験から考える(その3)

こども家庭庁の創設をシングルマザーの経験から考える(その3)

母は生前、私のこども時代の母子手帳をずっと持っていてくれました。
母は助産師として多くの赤ちゃんを取り上げてはいましたが、私は母にとっては後にも先にもたった1人のこどもでした。
当時、武蔵野市吉祥寺で助産院を開業していた母は、都立井の頭恩賜公園すぐそばの水口産科病院の水口先生と連携していました。
私を取り上げてくださったのは、その水口先生でした。
数年前に閉院してしまったようで残念です。

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母は、私を産んだ後も助産師として活動していましたので、ある時立川まで3才ごろの私を連れて電車で出向き、研修を受けました。
その時のテーマは『無痛分娩』でしたので、私は意味もわからないまま、その後しばらく「ムツウブンベン」と言う言葉を連呼していたようです。

私が長女をみごもったときに、母はそのエピソードを話してくれて、「慶子は無痛分娩にするのかしら? 病院が可能なら私がそばにいてあげるから普通分娩で大丈夫よ」と言いました。
私がお世話になっていた産科の主治医は、当時、たとえ肉親でも配偶者以外は分娩室には入れなかったところ、助産師と相談して私の母を分娩室に入れてくれました。
そして、医師、助産師だけでなく、母の声かけによって、初産でもそんなに痛みを感じないで出産することができました。

二年後、常磐大学からルーテル学院大学に異動して、おかげさまで水戸市までの通勤はなくなり、三鷹市に在住在勤となりました。
そして一年後、二人目を妊娠して市役所で母子手帳を発行されてからまもなく、急な腹痛で主治医の診察を受けると、即、入院となりました。
結果として、私は流産しました。

流産した日の夜、病院のベッドで涙が止まりませんでした。
通勤は楽になったものの、当時は出張が多く、あちこち新幹線や飛行機で動いていた自分を責めました。
翌朝、主治医がこう言ってくださいました。
「赤ちゃんの中にはどうしてもお母さんのおなかにとどまることができない赤ちゃんもいます。自分を責めないでくださいね。また、きっと授かりますから」

こども家庭庁の「成育部門」は、妊娠・出産の支援、母子保健、成育医療等を所管することになっています。
たとえば、子育て世代包括支援センターによる産前産後から子育て期を通じた支援 • 産後ケアなどの支援を受けられる環境の整備が推進されます。
そして、様々な困難を抱えるこどもや家庭に対する年齢や制度の壁を克服した切れ目ない包括的支援を進めることになっています。

私は、その後、主治医に言われたように妊娠をして、無事に次女を産むことができました。
一度目の出産直後には、急に文字が読みにくくなるなど退院までに一週間はかかりましたが、次女の時は産後の肥立ちが良く、四日ほどで退院できました。

妊娠も出産も一人ひとり多様であると思います。
私は三鷹市長当時、妊婦の皆さんの声を聞いたり、職員の提案を踏まえて、今では多くの自治体で行われるようになった「妊婦全員面接」を開始しました。
すると、二人目の妊娠の時に保健師・助産師の面接を受けた妊婦の方が、本当は最初のこどもを妊娠した時にこそこうした面談が必要だった。でも、二度目も一人目を育てながらの妊娠だから面接できてよかったです」と言う声がありました。

妊娠した人が、真に安心して、健康に、安全に、妊娠・出産の時を過ごすことができることは、胎児が心身共に健やかに育つためにも重要です。
こども家庭庁はもちろんのこと、妊婦に最も身近な市区町村の環境整備がこれからますます充実していくことを心から願います。

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