こども家庭庁の創設をシングルマザーの経験から考える(その4)
私の父は大正13年生まれの和歌山県出身で、農家の次男でした。
そして第2次世界大戦の戦時中、中国の旧満州に渡り、満州鉄道に勤めることになりました。
しかし、戦況が厳しくなった終戦間近の時期に19歳から徴兵対象となったそうで、19歳になったばかりの父も召集されました。
父は、陸軍の兵隊として現在は中国の黒竜江省のハルピンから朝鮮半島へと移動したそうです。
もしもハルピンにいたままならば、終戦の混乱でロシアに抑留されていたかもしれないそうです。
生前、父は戦争の話はほとんどしなかったのですが、「あの激しい戦地から無事に生きて帰れて、結婚して、慶子が産まれて本当に幸せ者だ」と言ってくれました。
こちらこそ、父の兄も母の兄も戦争で亡くなっているので、無事に生還してくれたからこそ、私の命が与えられたわけで、感謝しかありません。
父は帰還してから和歌山には戻らず、武蔵野市・三鷹市で仕事をしており、お見合いで母と結婚しました。
そして母に、「私が頑張って助産師の仕事で支えるから大学に進学したら」と勧められて、大学を受験しました。
戦地にいたので英語は全くできなかったので、父は津田英語会に通って受験の準備をしたそうです。
ですから、父は私には「とにかく勉強はできる時にできる限りしておきなさい」と言ってくれて、小学校・中学校の入学式にも参加してくれました。
私は父が選んでくれた私立の小・中・高一貫教育校に通学していましたが、一念発起して、高校は都立高校を受験することにしました。
父は、女子校ではなく男女共学を経験するのもいいだろうと応援してくれました。おかげさまで無事に合格しましたが、合格の掲示を見に行ってくれたのは父でした。
とはいえ、父は30代後半に勤めを辞めて小売の酒屋を開業したので、私は一人娘として跡を継がなくてはいけないと徐々に覚悟していました。
私は高校2年の16歳の時に、当時16歳から取得できた自動車の「軽免許」を取得し、高3では「普通免許」を取得して、配達を手伝い、店番もしていました。
けれども父は、「店はいつでもできるのだから、大学は受験しなさい」と激励してくれました。
さらに、大学4年の時に、大学院の推薦入学の候補になったことが分かった時に相談すると、「実は、自分は大学の恩師から大学院に進学することを勧められていたのだけれど、慶子が授かったので諦めたんだ。しっかり働かなくてはとね。だから、慶子には遠慮なく大学院に行ってほしい。」と言いました。
その後、私が修士課程を終えて、博士課程に進学したいと相談したときも、「これからは、女性だからと遠慮はいらない。とにかく、勉強して困ることは一つもない。やれるだけやりなさい。」と賛成してくれました。
大学院の授業料はアルバイトと奨学金で払い、親に負担はかけませんでしたが、自宅に同居して、時々配達を手伝うことで生活は甘えさせてもらいました。
いずれにしても、大正生まれの父も母も、古典的な女性観や男女の性別役割分業観に縛られた人ではなかったことは、大学院で学び、大学教員の道を選択した私にとって本当にかけがえのない応援でした。
私が二人の娘を妊娠した時、シングルマザーになるという選択をした時、三鷹市長という選択をした時も、しっかりと子育てを支えてくれたのは、私の母だけでなく、「育じい」という言葉がない時代に孫育てを実践する祖父役割を切り拓いた父の存在でもあります。
父は、私の全ての選択について理解できないことがあったと思いますが、私という生き方を見守り続け、励ましてくれた最も身近な男性としてその存在は極めて大きいと言えます。
女性の多様な生き方を実現する上で、家庭の中のジェンダー平等は大きな要因であると感じています。