阪神淡路大震災から28年
1995年1月17日午前5時46分に発生した阪神淡路大震災から28年が過ぎました。
6,434人が亡くなり、多くの方が被災しました。心からご冥福をお祈り致します。
基礎自治体で市長を務めた経験から、神戸新聞の1月16日の記事には胸が痛みます。
それは、「戦後初の都市直下型地震に見舞われた被災地は復興し、激震の跡はほぼ見えなくなった。だが、被災した兵庫県内の自治体は今もなお復旧・復興に関する地方債残高を抱え、うち神戸や尼崎など6市は、完済までに10年以上を見込む。当時の財政負担が尾を引く中、新たな災害に備えた防災・減災力の蓄積が求められている」と、多くの基礎自治体が未だ、多くの債務を抱えているという困難を伝えています。
私は、当時、東京の大学教員でしたが、兵庫県の大学教員の多くは被災者ということで、震災復興計画策定委員として復興計画策定の応援に駆けつけました。
特にその年の2月11日に県庁での全員による初会合に出向いた時のことが脳裏に蘇っています。
まずは県内を視察しましたが、神戸港は液状化が激しく、神戸市役所庁舎はじめ多くの建物は焼失を免れたとしても倒壊しています。
特に被害の大きかった神戸市青田区の上をヘリコプターで視察した時には、焼失しなかった住宅の屋根のほとんどはブルーシートで保護されていました。
あまりに多くの人が亡くなった上空を飛んでいることに胸がいっぱいになり、涙が止まりませんでした。
県庁の会議室は節電のためとても寒くて、コートを着たままで参加したような記憶があります。
そうした中、当時の知事や職員の皆さんの復旧復興に向けた使命感の強さに圧倒され、私自身も復興計画(フェニックスプランと命名)策定の委員としての責務を痛感して臨みました。
阪神淡路大震災の教訓は、防災減災対策、災害時の医療体制や避難所運営の在り方、防災訓練の在り方、災害時のボランティア活動の運営、備蓄の在り方などなど、その後の震災に生かされていることは多くあるとは思いますが、多くの尊い命が突然の激震とそれによる火災・倒壊・ケガや心身の疾病などにより失われたという事実を決して忘れてはいけないと改めて思います。