静岡県を訪問して(その2)駿府城公園を訪問しました
先日、常葉大学静岡草薙キャンパスで開催された【第20回全国大学コンソーシアム研究交流フォーラム】に報告者として参加した際には、報告時間が午前中の早い時間でしたので、前日の夕方に静岡市に入りました。
宿泊したホテルには、静岡市・大河ドラマ「どうする家康」活用推進協議会による「家康公が愛したまち静岡」の旗と「徳川家康公写稚児兜」が飾られていました。
そこで、私は、せっかくなので、静岡市内の家康公ゆかりの場所を散策したいとホテルのフロントに相談すると、ホテルからほぼ直進して行ける駿府城の二ノ丸堀(中堀)より内側の駿府城公園を紹介され、徒歩で向かい、北門橋から入場しました。
橋を渡ると、庭園が広がり、奥の方には駿府城跡天守台の発掘調査を公開中の場所がありました。
ただ、あいにく訪問時間が遅かったので、見学はできませんでした。
駿府城公園のホームページで紹介されている【徳川家康と駿府城との関係】によれば、今川氏全盛期9代義元の時代の天文18 (1549) 年に、家康(幼名 松平竹千代)は人質として19歳までの12年間駿府で生活しており、臨済寺の住職太原雪斎などから種々の教えを受けて人間形成の上で非常に重要な時期を過ごしていたそうです。
そして駿府は、永禄11(1568)年10代今川氏真は甲斐の武田信玄に攻められ、駿府の町は焼き払われるとともに、天正10(1582)年には家康が駿府の武田勢を攻め、再び戦火に遭った駿府の町はほぼ壊滅状態になりました。
駿河国を領国の一つとした家康は、天正13年(1585)から居城として駿府城の築城を始め、天正17(1589)年に完成させます。しかし、家康は翌年関白豊臣秀吉の命によって関東に国替えされ、豊臣系の家臣中村一氏が城主となります。豊臣秀吉亡き後、慶長5(1600)年関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8(1603)年征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。
慶長10(1605)年将軍職を2代秀忠に譲った家康は、その翌年駿府を「大御所政治」、すなわち前将軍が隠退後も在職中と同様の実権をもち政治を執り続ける際の拠点の地と定めて再び戻ってきました。
そして、天正期の駿府城を拡張修築し、慶長11(1606)年頃から駿府の町割りや安倍川の治水事業に取りかかり、現在の静岡市の市街地の原型が造られたとそうです。
家康は、晩年も「大御所」として天下の実権を掌握し、駿府は江戸をしのぐ政治・経済・文化の中心となったのです。
家康は元和2(1616)年に駿府城で亡くなっていることから、家康は駿府と大変に深い縁を持っていたと言えます。
駿府城は明治時代に廃城になるまで、寛永12(1635)年以降天守が再建されることはありませんでしたが、これは徳川家による江戸幕府の体制が盤石なものとなり、戦いや権威のシンボルであった天守を必要としない、「天下泰平の世」になったことを示すと考えられているそうです。
今回は修復されている東御門や巽櫓などについてはゆっくりと見学することができませんでしたが、お堀やそのそばの緑の美しさ、近くにある静岡市民文化会館のそばに設置されているいくつかの彫刻に、旅の疲れを癒してもらいました。
とはいえ、猛暑の名残で首にタオルを巻いて歩くほどの日でしたので、帰り道に静岡市葵区鷹匠町の通り沿いにあった【CHAGAMA】というお店の看板が目に留まりました。
住所の【葵区】という名称にも、徳川家康の葵の御紋の名残があるのですね。
この店はいつでも100種類以上のお茶を試飲できる日本茶専門店で、エスプレッソ装置もあるテイクアウト専門店でもあります。
お茶は静岡県の名物ですし、静岡の思い出にと思い、急須だしの冷たい煎茶をいただきました。
首の汗も直ちに抑えられ、涼しくなってホテルまで戻りました。
講師て久しぶりに訪れた静岡の初日に出会ったのは、【徳川家康と駿府城のご縁】についての学びでした。