ケアネットしんなかのサロンで朗読グループ「和っしょい」の朗読を聴きました
毎月第4木曜日の午後は、副代表を務めている「地域ケアネットワーク新川中原(ケアネットしんなか)」の定例サロンが開かれます。
2月の定例サロンの日は3月のひな祭りを控えて、ボランティアの張村さんが、すべて手作りのおひなさまで歓迎の飾りを整えてくださいました。
冷たい雨の降る日となりましたので、畑谷代表は開会の際、思わずこう挨拶しました。
「皆様、こんな冷たい雨の日にようこそお越しくださいました。実は、今日はお客様が少ないかもしれないと推測して、まんなかの2つのテーブルを出すのにためらったんです。ところが、反対に席を増やすほどの盛況で、皆さんの元気とサロンを大切に思ってくださっていることに感謝します。」と。
この日の冒頭のプログラムは、朗読グループの「和っしょい」の皆様による朗読でした。
女性のおおつきさんは、東北地方の方言による朗読をしてくれました。
男性のあさみさんは、夏目漱石の『猫の墓』を朗読してくれました。
「吾輩は猫である。名前はまだない」との『吾輩は猫である』の冒頭を紹介されて、夏目漱石が結果として名前をつけなかった猫の晩年とその墓について書き残した短文を朗読されたのです。
漱石は、日毎に衰弱していく愛猫について、詳細に書き残し、妻に依頼されてその墓標を書いたことに表れている愛情の深さを微笑ましく受け止めることができました。
最後に、指導者である伊藤さんが、親御さんを見送られたご葬儀で、お坊さんが読経の後で読んでくださり、感銘を受けたと言う詩を朗読されました。
それは、ご自身が両親を見送る立場から、今後は、自分が見送られる立場になる世代となることから、同様の立場の方が多いと思うサロン参加者の皆さんと共有したいと考えて、朗読されました。
その詩は、ポルトガルのある方が娘や息子に宛てて書いたと言う『手紙』という詩です。
その内容は次のようなものでした。
断片的ですが、記憶に残る部分を列挙します。
○年老いた私がある日今までの私と違っていたとしても、どうか、そのままの私のことを理解してほしい。
あなたと話す時、同じ話を何度も何度も繰り返しても、その結末をどうかさえぎらずにうなづいてほしい。
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の結末はいつも同じでもいつも心を平和にしてくれたように。
○あなたがか細い足で立ちあがろうと私に助けを求めたように、よろめく私に、どうか手を握らせてほしい。
○あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように、私の人生の終わりにしっかりと付き添ってほしい。
この日、3人の方々の朗読が終わると、参加者から大きな拍手が寄せられました。
伊藤さんは、おおつきさんは「方言の朗読のエース」で、あさみさんは「正統派の朗読のエース」と紹介されましたが、3人の皆様は、心のチカラと、おなかの底からの声のチカラとで、聴く人の心に届く朗読をされたように思います。
だからこそ、参加者の皆様の心に、それぞれのお話や詩の内容がしっかりと届いたのだと思いますし、朗読された3人の皆様は、聴く人の傾聴力で、その朗読のチカラを大いに発揮されたのだと思います。
というのも、私自身が2月中に、地元の小学校の6年生の2つのクラスと1年生の1つのクラスで絵本の読み聞かせのボランティアをした時に、同様の経験をしたからです。
すなわち、各学級の児童の皆さんの眼差しと心をまっすぐに向けてくれた聴くチカラによって、私自身の読み聞かせのチカラがアップしたように感じたからなのです。
こうして、コミュニケーションとは、まさに、相互性であり、お互い様なのだと思います。
大切な人の死を送る立場を経験したからこそ、自分自身が送られる立場になることについても、真摯に、謙虚に向き合えるのだと思います。
話を聴く立場を、真摯に、謙虚に経験しようとしているからこそ、話す立場についても、真摯に、謙虚に向き合えるのだと信じます。