『三鷹市吉村昭書斎』の開館記念式典・内覧会に招かれて参加しました
3月9日(土)、三鷹市井の頭3丁目に新たに設置された『三鷹市吉村昭書斎』の開館記念式典・内覧会に招かれて参加しました。
青空が広がっているとはいえ、『早春賦』に歌われているような「春は名のみの風の寒さ」を感じる朝、私にとっては「身が引き締まる」式典でした。
なぜ緊張して臨んだかというと、式典で主催者として三鷹市の河村孝市長が「津村節子さんと清原前市長は同じ高校の同窓生であるご縁を含む相互の信頼関係に基づいて、吉村さんの創作の拠点であった書斎の寄贈が提案された」と、最初のきっかけを紹介されたように、この事業のきっかけをいただいたのは私自身であったからです。
2006年に吉村昭さんが逝去されてしばらくたった頃、妻である芥川賞作家の津村節子さんから、吉村昭さんが多くの作品を生み出した書斎を三鷹市に寄贈して永く保存しすることを通して、「文学のまちづくり」に生かしてほしいとのご提案をいただいたのです。
吉村昭さんと津村節子さんは昭和44(1969)年に都立井の頭公園の近くに転居されて以来、多くの文学作品を生み出してこられた三鷹市在住の作家でいらっしゃいます。
『三陸海岸大津波』『戦艦大和』『冬の鷹』などの綿密な調査に基づく小説を残された吉村昭さんは、『星への旅』で、三鷹市ゆかりの作家である太宰治を冠した文学の新人賞である「太宰治賞」の第2回目の受賞されました。第1回目の受賞者はいませんでしたので、実質的に初代受賞者ということができます。
そこで、三鷹市が1999年に筑摩書房と連携して、それまで中断していた「太宰治賞」を復活した際に選考委員を務めてくださいました。
そして、私が三鷹市長に就任した2003年度に開始した、これも筑摩書房との共催による「文学講演会」の最初の講師をお引き受けいただきました。
また、津村節子さんは、文化功労者で日本芸術院会員をおつとめになる一方で、三鷹市ゆかりの文学者展に出品していただいたり、文学講演会の講師をお務めいたいたりするなどの三鷹市の文学のまちづくりにおける功績をたたえて、市議会のご同意をいただき、2015年に「三鷹市名誉市民」に推挙させていただきました。
私は市長在任中に、文学施設に関する有識者及び市民参加による検討会議を設置して、津村さんのお申し出による書斎の移設を含む吉村昭さんの顕彰と、同じくご遺族から多くの関連資料を三鷹市にご寄託いただいていた太宰治さんの顕彰をはじめとする「井の頭文学施設(仮称):太宰治記念文学館(仮称)及び吉村昭書斎(仮称)」の基本的な考え方をまとめて、東京都と連携して都立井の頭恩賜公園内にそれを設置する構想をまとめました。そして、市民の皆様と市議会に報告しました。
けれども、市民の皆様からのパブリックコメントでは、都立公園内に設置することについては、野鳥等の生態保護・環境保護を求める方々から反対のご意見が多く寄せられ、慎重に検討した結果、私はその場所での整備をやむを得ず中止した経過がありました。
その後、現市長のもとで、京王井の頭線井の頭公園駅から徒歩数分の線路沿いの地に書斎の移設が構想され、関連の展示を含む「交流棟」を併設する整備が進められ、この日、開館の日を迎えたのです。
開設に向けて、クラウドファンディングが実施され、(株)筑摩書房、(株)新潮社、(株)文芸春秋、中央公論新社、(株)岩波書店、(株)河出書房新社、(株)KADOKAWA、の他、個人では津村節子さんはじめ約70名の方の一定金額以上の寄付者のお名前が掲示されています。
式典の来賓あいさつの中で、伊藤俊明市議会議長も、三鷹市で多くの作品を生み出した吉村さんの書斎が寄贈され、顕彰されることの意義を祝福されました。
筑摩書房の喜入冬子社長は、太宰治賞の初代受賞者であり、復活後の最初の選考委員を務めてくださった吉村昭さんとの深いご縁を紹介されるとともに、その文学を象徴する書斎が文学振興の拠点となることを祝福されました。
そして、ご家族を代表して、ご長男の吉村司さんが、ご挨拶されました。
まずは、ご挨拶の文書を用意されて、吉村昭さんのお茶室を併設した書斎の移設と文学の顕彰施設の開設についてのご家族としての想いや開設に向けて関わったすべての方への感謝を丁寧に話されました。
その後、用意された紙を閉じて、次のように語り、参加者の胸を打ちました。
「僕は父が亡くなってから、書斎を見て2度泣きました。1度目は、所蔵の本や資料が、父の生誕の地である荒川区に寄贈され、何もなくなってしまった時に、本当に父はいなくなったのだとの喪失感で泣きました。2度目は今日です。この移設された書斎には、父が今もその椅子に座って執筆しているかのように、生前のままの書斎が存在しています。だからこそ、泣きました。」と。
式典後のテープカットは、河村市長、伊藤議長、大倉あき子市議会文教委員長、ご遺族の津村節子さん、吉村司さんがされると司会の大朝スポーツと文化部長から紹介されましたが、突然、市長から「ぜひ清原さんも」とお声がかかり、大変に驚きましたが、ご高配に感謝して、急きょ参加させていただきました。
この事業のきっかけの際の市長でありながら、在任中に実現できなかったことに恐縮の気持ちでいっぱいで式典に参加したのですが、ご寄贈をご提案いただいた津村節子さん、司さんとご一緒にテープカットをさせていただくことができて、本当に光栄に思います。
閉会後に、(公財)三鷹市スポーツと文化財団の文芸担当の学芸員の1人の吉永さんと書斎で対話しました。彼女は、散逸した吉村さんの資料を探索し、生前の写真などを参考にして、書斎をよみがえらせたわけですが、「この間のささやかな努力が、ご長男の司さんの【書斎を見て泣きました】というご挨拶をお聴きして、本当に報われた想いでとても幸せです。」と感激していました。
他の学芸員も、市の担当職員も同様に感激したと思います。ありがたいことです。
私は、吉村昭さんの文学のチカラが、津村節子さんの作品のチカラと共に、『三鷹市吉村昭書斎』を活用した交流事業の推進を通して、継続し波及することを心から願います。